昭和50年8月26日 朝の御理解
中村良一
御理解 第25節
「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」
大きな信心ということは、いわゆる、大きな心と、その大きな心の内容に、豊かな心というのがなからなければいけません。ね。大きな信心。心が大きくなる。ただ、大きくなるだけではなくて、しかもそれが豊かである。ね。そこで、大きな心を目指さなければならない。同時に、豊かな心にならせていただく精進もしなければならんということになる。信心は大きな信心が良い。というのはね、大きなおかげの受けものを作れということでもあると思うです。ですから、できるだけ大きな、しかもそれが豊かに。どんなに腹の立つような事があっても、どんなにいらいらするような事があっても、そのいらいらする様な時、腹の立つような時こそ、いよいよ、豊かな心に欠けておる自分を悟らせてもらって、いよいよ、豊かな心にならせて頂く稽古をしなければいけません。それには、いらいらする心。腹の立つ、例えば心を、金光様、金光様と唱えて、まぁ、穏やかに、押し沈めるという手もありますけれども、ね。それは、腹を立てることでもなからなければ、いらいらすることでもないんだと。その大元をね、知り、分からせて頂くということ。ね。
今朝、私、朝の御祈念、もうとにかく、冷房が効いてないものですから、私はもう、冬でも、一生懸命に御祈念をすると、やっぱり、汗ばむくらいにあります。やっぱり、信心はですね。一生懸命、こらもう、腹に力を入れて御祈念をさせて貰うのですから、とても、眠気どんじゃありませんよ。ね。そして、やっぱり、冬でも、暖まるくらいになりますよ。私共は、あの御本部の奥城の前で、もう寒中に、あの石畳の上に座って御祈念をする時でも、御祈念が終わるくらいには汗ばんでますよ。そのくらい、一生懸命なものがなからなければいけません。
今日はこの、私、大体が、沢山水を頂くものですから、尚更のこと。もうとにかくもう、下がぎっしり汗がでるです、ね。そしてもう、私が、これだけ汗かきの事が分かっといてから、どうした、その冷房ば、ここに効かせとらんじゃろうかと思うてからもう、いらいらしよる。そしたらもう、いらいらしだしたら、途端、今まで通うておった神様との交流が、ぴしゃっと止まってしまうんですよ。だから、いらいらという事は、そのくらいにね、あの、障るものだという事を思うたら。おかげが、例えば、おかげをどうぞ、どうぞと言うて言いよるけん、こう来よっても、もうそこに、腹を立てたり、いらいらしたら、もうそこで、止まるとと同じです。ね。今日は、私は、だからその、ね。大きな信心ということは、結局、大きな心にならせて頂くことだと思うんです。ただ、大きな事で、天下国家の事を祈るとか、お願いをするというような事ではない。それも、段々、心が豊かに大きくなってまいりまして、信心が段々、分かれば分かるほど、それこそ、天下国家の事も祈らなければおられません。ね。ですから、やはり、大きな信心ですけれども、ね。先ずはね、それを、大きな、いうならば、祈りでも、祈らせていただかなければおられない心を頂く信心の精進が大事です。そこでその、大きな信心、大きなおかげを頂くためには、大きな信心をしなければいけません。その、大きな信心とは、だから、大きな心になることだと思います。そんなら、その大きな心の内容としてはです。どうしても、豊かな豊かな心にならなければならないという事を、今日は、私、御祈念中に、ね。冷房ば止まったでもないけれども、小さいのにしてあったんでしょう。もう、汗が出るくらいに、じっくりに出てくる。そすと、心が、いらいらしてきよる。どうした馬鹿じゃろかと、あっはは、私が、こんなに汗かくことは分かっとってから、どうして、冷房切ってしもうてからとこう、いらいらする。ね。今まで神様と交流しよったのが、ピシッと止まってしまうんです。ね。そして、御神願に、あの、栗、今、あの花が、綺麗な花が咲いとります、あの中にね。笹栗ですね、山の栗、栗の枝が、栗の実が付いたのが、何本かさしてあります。あの栗を頂くんです。ね。私の、いうなら、心がジガジガしよるという事でしょう。だから、いうならば、今まで交流しておった神様と私との、いうならば、話し合いが、幾らこちらから話しかけても、神様が、向こう向いてござるという感じです。これは、ね。いうならば、皆さんがおかげを願う。どうぞと言うて、一生懸命願うから、神様は下さる気になって、なら、おかげが、願う氏子の上に、いうならば、流れていく。おかげは、いうならば、お水のようなもの、ね。流れるように。その流れて来よる。もう、直ぐこちらの、流れ着こうとしてる時に、いらいらしたり、腹を立てたりしたりしてごらんなさい。もうそこで、ぴしゃっと止まってしまうんです。そして、他の方さん流れていく。これではいけないでしょうが。ね。おかげを頂くためにもです、ね。豊かな、大きな心を頂かなければいけません。ね。それで、私は、御祈念中に、久しぶりに、汗をかいてみろうとこう思うた。ね。以前の、あの椛目の時代なんかは、もうそれこそ、この下に座っておる座布団が、じっくりなるくらいでした。はおりの上まで、汗がにじんできよりました。ね。それでもね、もうそれが、それこそ、背中に、だらだら、だらだら、汗を感じながら、それが、有難うして、有難うして、後ろからは汗がでる、前からは、涙がこぼれるというような毎日でした。ね。だから、本当に一つ、本気で修行させていただこうという気になったら、いうなら、その汗もまた、有難いのです。いらいらする元、ね。腹の立つ元をです、本気でそれを、ほんなら、修行で受けようとこう思うたら、腹の立つだんじゃない。いらいらするだんじゃない。お礼が申し上げれる事になるのです。ね。腹の立つような問題がそこに起きてまいりました、ほんなら、これで一修行させてもらおうと言う気になったら、もう、有難くなるです。
皆さん、今日はね。大きなおかげを頂きたい。ね。それには、一遍に、大きくなることは出来ません。段々、段々、お育て頂いて大きくなっていく。ただ、大きゅうなって行くだけじゃない、豊かに、美しゅう、心が段々、大きく広く、ね。広うなって行かねばいけません。そこに、大きな、いうならば、おかげが約束されるのです。それに、ちょっとした事に、いらいらしたり、ちょっとした事に、腹が立ったりするようなことでは、先ず、大きなおかげは望まれません。おかげがもう、そこじゃ止まるです。
昨日は、二十五日ですから、婦人部の方達の研修会。昨日は、もう研修会、研修室が一杯でした。昨日は多かった。なかで、福岡の川上さんが、発表をなさっておられました。昨日一昨日でした。息子さんが、自動車で、三つになる赤ちゃんを跳ねた。道路の向こうのほうへ、お母さんが、子供を抱いておる。三つになる子供は、こちらにおったもんですから、お母さんのところに行こうとして飛び出したんです。それを、目撃者のお話を聞くと、それをずーっと引きずって行ったそうです。そういう事です。だからもう、自分も終えたとこう思ったらしい。ね。それでもう、びっくりして、直ぐ、医者に抱え込んでまいりましたところが、もうそれこそ、医者も知った方、それから、その赤ちゃんのお母さんという人も、ご主人の勤めのところに、アルバイトで勤めに来た方だったそうです。そして、お医者さんがおいたところは、こらもう、どうもしとらんという事であった。ただ、本当に、不思議というより他にない、有難いというより他にはないという発表をしておりました。私は、その事を、目を瞑って、じっと聞かせて頂いておりましたら、下の真っ黒な、真っ黒に、その上に真っ赤な赤の色を頂いた。黒と赤を。皆さん、ご承知でしょうか。金光教の青年会の会旗は三色旗です。ね。天は青く、ね。地は黒く、なか紅のという、三色旗の歌がございますよね。天は青く、地は黒く、なか紅のという、ね。青を天になぞらえて、地を黒に例えて、中の氏子の心の、いうならば、赤い心、いわゆる、真心、または、信心の熱情といったようなものが、その赤の中には含まれておるもの。これは私だけの解釈ですけれども、そう思うんです。ね。天は青く、地は黒く、なか紅の。その天は青くというその、青いというところが無いのです。ね。
昨日も、申しましたように、七月の三十日の大祓い式を、もう境に、第一号が、福岡の高橋さん所の店員さんが事故を起こしておる。もうそれから、もう続いて、五十日間あまりというものは、事故の連続というても良いくらいでした。それが、皆、今も申しますように、もう本当言うたら、大怪我しとる。もうとにかく、自動車が半分になっておったり、びっしゃげてしもうたりと言うような、事故も、中にはあったんです。けれども、人体には、全然、怪我はないというような、言うなら、そういう一つの、そういう方の事故ばかりでした。もう神様のご都合に、間違いが無いことが分かる。ね。私は、そういう時に、お気付けとも思わなかった。ね。本当言うたらね、そういう事によって、いよいよ、神様の有難さというものを分かる。昨日も申しますように、ね。病気をする、病院にかかる、お薬を飲む。「はぁ、あのお薬は効いた。」「あそこの病院の先生は、なかなか上手。」そらもう、神様のおかげを頂いて、有難うございますと言いよるけれども、病院の先生が上手じゃった。あの薬が効いたという事で、もう、いうなら、有難いと言う、神様のおかげというものはもう、三分の一になっとる。ね。どんなに、いうならば、ね。素晴らしい薬を投薬されても、どんなに素晴らしい、言うなら、手術の名人という外科医であっても、ね。手術は、投薬は、医者がするけれども、癒したまうのは、神様だと言うところを分からせたいということだと、私は思います。ね。ここのところが分からなければね。有難いというものが、三分の一になったり、五分の一になったりする。ね。お金のお繰り合わせでもそうです、ね。本当に、お金のお繰り合わせを願わして頂いて、ね。おかげを頂くけれども、それが、銀行から借ったり、または、あの人から借ったりという事になるとです。ね。はぁ、銀行が貸してくれたおかげでと。あの人が、親切に貸して貰うたおかげで、金銭のお繰り合わせを頂いた、と言うのです。おかげを頂いたとも、勿論、言いよる。おかげ頂いて、昨日お繰り合わせいただきましたというてお礼にもくるけれども、ね。それは借っておる金だから、おかげではないような、ね。
ある人が、どうしてもお金が要るのに、どこに借り行きようもない。困っとる時、隣の人が、おいちゃん使うときなさいち言うてから、お金を貸してくれた。もう、お母さん、有難いというて、そのお繰り合わせを、有難いとお礼を申し上げよった。そしたら、横から、お父さんが、「そればってんお前、返さんなるめーもん」ち言うたち言う。ね。神様のおかげを頂く、借っとるとに、返さにゃんこつは分かっとる。けれどもね、ただで貰わなければ、おかげで無いような思い方が間違いなんだと。ね。もう、本当に、もう丸とそのままが、神様のおかげと。おかげと言うのは、氷山の一角。だから、その根のところが、分からせて頂く事のために、神様も苦しい思いをさせて、いうならばです。勿論、それは、生き生きとした教会に、生きた働きがあっておる証拠だ。昨日の御理解の中にも、その事について頂いたようにです。もうそれこそ、高い高い、いわゆる、これなら、公害もあるまいと思われるような高い煙突から、もくもくと、その真っ黒い煙を吐いておるところを頂いた。ね。真っ黒い煙が出ておるということは、その、いうならば、お教会が、生き生きとした働き、その工場が、生き生きとした活動をしておるときなんです。そこで、どういう活動かというと、より、いよいよ神様の有難さを分からせよとする働きがです。今年の、私は、大祓い式から、いうならば、昨日一昨日まで続いたんだと思います。だから、私が、皆さんにそれを、研修会のときにも話しましたことでした。ね。同じ、例えば、自動車で、三つの子供を跳ねて、しかも飛び込んで来たと言う、その事が、直ぐそこの、合楽食堂の、二番目の息子と、川上さんところの息子の、同じケースの事故であった。勿論、その合楽食堂のほうの息子も、それこそ、びっくりして、医者に連れて行ったところが、ほんのかすり傷程度で、もう病院に入院せんならんかと思うたら、いやもう、あの、薬の付け替えに、まぁくればそれで良い。そして、中はどうもしとらんと言うほどしのおかげであった。同じじゃった。ね。そこで私は、こういう、例えば、本当に、ヒヤッとするようなお気付けというか、そういう働きでは、ね。皆さんも嫌でしょう。分かるところだけ分かったら、もう大概、皆もわかっとるでしょうから、今日の事故を、もう境に、またどうぞ、おかげいただきますようにと言うお願いをしましたから、皆さん、安心て下さいというような話をさせて頂いた事ですけれども、ね。分かっとらんなら、まだある。ということになるじゃないですか。ね。本当にね、それこそ、今日一日、無事故であったということの中には、どのくらい、神様の深い働きを受けておるか分からない。ね。丸とそのまま、いわば、おかげと頂けれるような心です。川上さんは、そうして、いわば、感激して、ね。そうした事故を起こしながら、その事故というのは、事故とも言われんくらいのことに済んだということがです。有難いと言う発表があっとりましたら、私が頂く事は、いわゆる、天は青く、地は黒く中紅のという、その、青の無いところをいただいた。ということは、青ということはね。天ということは、私は、神と言うことだと思うのです。この三つが揃わなければ、足ろわなければ、三色旗にはならない。この青が足ろうて、黒もおかげなら、また青もおかげであると分かるということだと。そこを分からせたいばっかりの事故であったんぞと、神様が説明してくださったように思うた。ね。ただ、おかげを頂いて、いうならば、大難を小難にお祭りがえをいただいたというおかげではなくてです。神様が、そういうおかげを分からせて下さろうとする働きであった。しかも、日々、合楽のご信者さんの上に現れてきた、そういう、交通事故というような事がです。それによって、合楽全体が、そこを、もっともっと、今よりも有難いとか、神の働きというものを感じ取らなければならない。私は、大きな信心とはね。そういう、三色旗が足ろうたような信心。それを本当に、おかげと。黒もおかげなら青もおかげ、それを、赤心ですね、真心。真っ赤な信心の熱情を持って、これを繋いだときに、三色旗、ね。天地人という信心。それこそ、これが私は、大きな信心だと思います。そう言う信心が分かるということが、ね。天地の大恩恵というものを、本当に、言うなら、ずーから分からしてもらう、芯から分からして貰うということがです。大きな信心が分かったということになるのじゃないでしょうか。同時に、ね。そういう信心が分からせていただいてです。神恩報謝の心が、いよいよ、いやが上にも、心を大きく、または、豊かにお育てを頂く事になるのです。だから、おかげが清らかな、美しい、大きなおかげになってくる。大きなおかげを頂きたいなら、先ず、大きな心にならなければ。その心の内容は、豊かにならなければいけない。もう小さいことが、心配になって、心配になって応えん。もうちょっとした事が、いらいらして、腹の立って応えん。それでね、如何に、さかたんぼ打って、一生懸命お願いしてもね。そのおかげはもう、交流しよったのが、ちょこっとばっかり、流れてくるような事であってです。神様と、私共が、はっとこう、ね。柏手をこう打つ、これが、手と手がこう、合うようにです。おかげを頂くためには、ね。いらいらしては、言うたら、神様の交流は、もうその場で、即座に止まってしまうという事を、今朝の私の御祈念の中に感じさせて頂いたことからヒントを得て、今日は聞いていただいた。ね。そこで、私が、ほんなら、まぁ、私が、汗かくこと分かっとってから、どうして冷房かけせんじゃろかという心は、いらいらした心。ね。けども、今日はもう、久しぶりにいっちょう、ね。一汗かかせてもらおうと、こう腹を決めた途端に、今まで、交流を、いうならば、神様と私との間に切れておったものが、また、ずーっと流れてくる。これは、おかげもそうなんです。ね。だから、如何に、いらいらしたり、腹を立てたりしてはいけない。はぁ、今こそ神様が、大きゅうなれ、大きゅうなれというてござる時だというような生き方、頂き方。それを、いうならば、修行と思うたら、それはまた、有難うなってくる。一汗かこうと思うたら、ね。もう、また、その交流が始まるようなものなんです。ね。せっかく、皆さん、おかげを頂くならね。大きなおかげをいただかにゃいけません。しかもね、一心と定めいとこう仰るから。もう、今日の御理解を頂いて、今日の御理解を境に、もう本当に、いらいらするようなことが起こっても、腹の立つようなことが起こっても、腹も立てまい。いらいらもするまい。いや、そういうことが起こったなら、それを一つ、修行として受けよと、一心と定めいと、その事だと、私は思うね。どうぞ。